父のはなし
大好きな父は大学教授、家ではミリタリーマニアなわたしの「パパ」。
享年、52歳。 トーキョーと名がつく一番の大学を出て、大学講師になり、死ぬ 間際には学部長まで上り詰めた偉大すぎる父でした。 本当にわたしの父なのか?と、よく聞かれます。
母と並び、世界で一番大好きな人であり、誇りでした。
ゲームに音楽、漫画に小説、映画におもちゃ…わたしが今大好きで大切にしているすべては、父から受け継 いだもの。そう言っても過言ではないんです。
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「頭が痛い」と、父が突然嘆いた。
普段元気な姿を見せながらゲームをしていて、犬の散歩を早朝か らして、真面目だけれど明るい。
そんな父が帰宅と同時にふらつきながら、倒れるように寝 床についた様子を見せたのは、急なことだった。
とある休日に病院に行ってくると一言残して、何時間も何時間も父は帰ってこなかった。
母とと二人、なぜか酷くゾッとする感覚に陥りながら、タ ウンワークに乗っている病院へ片っ端から問い合わせたが、父の姿は確認できなかった。どうしよう、警察に連絡した ほうが…大学に連絡したほうが…混乱していた矢先、ふらりと父は帰ってきた。
「明日入院することになった」という言葉を連れて。
突然の事柄に、母と二人で驚いた。
わたしは何が起こったか全くわからず、 その日は父の顔を一瞬すら見ることは出来ずにいた。
次の日、父は家を出て緊急入院。
もう、「生きて」家に帰ってくることはなかった。
症状は、髄膜腫。
ずいまくしゅ?一文字一文字を頭の中に描いてみても、 わからない。この病気は死に繋がるのだろうか。そう思うと怖くて、調べることすら、話を聞くことすら、何一つ出来なかった。
何日か、見舞いにすら行けない日が続く。
受験も迫っていて、ただでさえ頭が混乱していた自分には心の 負担が多すぎて、1日に何回も吐いた。
当時、わたしに好意を抱いてくれていた同性の子だけに電話をして、 普段弱音を吐かれる側だったわたしが、はじめて弱音を吐いた。泣 きじゃくりながら、死なないでくれ、死ぬならわたしが死ぬと、ひたすら叫んでいたのを覚えてる。
意を決して見舞いへ行った日、少し痩せた父の姿を見た途端、視界が霞んだ。
変わらぬ笑顔を見せようとしていた父に涙は見せたくなくて 、太ももに爪を食い込ませながら耐えきった。
父と話をした。毎日聞いていたはずの声が懐かしい。掠れて弱々しくなった声はあまりにも痛々しかったが、耳に届くその声色は、変わらずやさしい。 病床で読める漫画を持ってきてくれ、毎日やってる仕事を頼んだ、 自分は大丈夫だ。 勉強はしてるか?受験が近いから自分の心配をしなさい、母の手伝 いをしなさいね。
見舞いに行くたび、そうやって話をした。
つらかった、だから、毎日は見舞いには行かなかった。
行っておけばよかった、泣いてでも、辛くても、毎日喋っておけば よかった。 父が亡くなってから、後悔をした。聞きたいことは、 山ほどあったのに。 今でも毎日後悔している。
2月の半ばの入院、そして、受験。
入院費用、手術代。我が家は裕福ではないから、 かかる負担を恐れて、わたしはセンター試験を捨て、 本試験を1つだけの大学に絞った。 今まで受けたかった大学の受験を全て辞めて、 120パーセント受かる大学を探した。
名前も知らない大学だった、だけど、 ここならなんとかやっていけそうだった。もちろん結果は合格で、父は、上位の大学でもないのに、合 格通知にとても喜んでくれた。ひとつだけ、亡くなる前に安心させられた。 それが嬉しくて、その日は近所の公園で3時間泣いていた。
突然、父がiPadを欲したのだった。
携帯もずっと持たず、興味ももたない父が、iPadなら持 ちたい、と言い出した。
すぐに電気屋へ行き、分割払いで買った。わたしでも持っていない大きな塊を抱えて病院に帰り、すぐに父が好きだったサイトや映画音楽のURLを入れて、 メールアドレスの設定をした。
次の日に、メールが届いた。
父が転院するまで、4件のメールが届くことになる。わたしを褒めてくれたり、謝られたり、届くたびに、吐くまで泣い た。
入院から何日が経ったんだろうか、父が検査手術を行った。
その頃には、父は見るに堪えないほどとても痩せ細っていた。
レベル4(末期)の大腸がんだった。
母から聞いた途端、 頭に悍ましいほどの重りが落ちてくるのを感じ、
今まで抱いていた希望が崩れ落ちるのを感じて、
インターネットで死にもの狂いで希望を探した。
成功例を見て、自分を慰めた。しかし、次のページでは、 現実を突きつけられる。どれを見てもそうだった。
希望は、ほとんどなかった。
結果が告げられた後急な転院が決まり、 いよいよ手術が近付いてくると、 今まで一言もネガティヴな事を言わなかった父が、はじめて呟いた。
「こわい」と。
朝方に送られてきた最期のメールには、父からの言葉がつらつらと綴られていて。
我が家の犬と鳥も自分を待っているだろう、犬と散歩できるのを楽 しみにしている、そして、本文の終わりには
『退院できて体力が回復したら、三人で家族旅行をしましょう。』
と。
言葉を見た瞬間、携帯を落とした。
現実で死亡フラグを見た。
暫く意識を失ったらしい、気付いた時には布団の上であり、吐瀉物に塗れて気絶していたと聞いた。
医療タクシーを使って、父が遠くの病院に転院した。
ドラマでしか見たことのないような大きな病院だった。
痩せ細り、点滴を受けている父を見た。
病院が遠かったため、父には頻繁に会いに行けなかった。
手術もすぐの事であり、会ったのは手術前であった。
父が書き記していた、簡易な日記を母と見つけた。
ちらりと見た。プロテスタントの父が神に祈っている文章を、見た。
手術前に、少しだけ話をした。
父も大丈夫だと言っていた。わたしも母も、 大丈夫だと精一杯笑った。
手術に行く父に、「頑張って」と、声をかけた。
これが、最期の言葉になった。
父の手術は成功したが、人工肛門を嫌がっていた父は、
リハビリを受けて、すぐ、数日も経たないうちに炎症を起こし、大 量出血を起こし、
その知らせを聞き、駆けて行った。
目にしたのは、動かない父の姿。たくさんの点滴に繋がれた父の姿 。
目にした途端、倒れ込みそうになった。膝が震え、化粧室に行く途 中に、倒れた。
吐いて、泣いて、気が狂った。 看護師さんに取り押さえられて、ベッドに拘束されても、 喉からひゅう、としか出なくなるまで泣き喚いた。
そして悟った、もう、目覚めないんだろうと。
母は毎日見舞いに行った。
医師のまだチャンスはあるという言葉を呪った。医師の色のない瞳と表情から、もう希望はないと悟ったからだ。
しばらく経ち、母から言葉が出た。今後の事についてだった。
人工呼吸器は医師側は何が何でも外すことはできないため、決断を迫られていた。
母から、言葉が出たことを覚えている
「このまま薬の投与を続けて、植物人間でもいいから、生きてもら う?」
わたしは首を横に振った。
父に苦しんでまで生かされてほしくなかった。プライドの高い父 だったから、こんな無様な姿をずっと曝け出すのは
きっといやだろう、そう考えたからだった。
母も、全く同じことを考えていた。
流石に涙を隠しきれず、母に隠すように化粧室に逃げ込んで、切れ るほど唇を噛みしめて泣いた。 唇が真っ赤だった、噛み切ってしまったらしい、痛みなんて、 1ミリも感じなかったのに、人は現実で唇を噛みちぎる事がある。
父の事は、従兄弟と一部の大学関係者以外、誰にも話していなかっ た。
祖父母にもだ。
祖父母は高齢であり、ショックも大きいとそれこそ倒れてしまう。 そして、心の底の少しの希望に賭けていたから。話さなかったの だ。
しかし、もうそろそろ亡くなると祖父母に話さなくてはならない。
話せば、直ぐに祖母が遠方から駆け付けた。
祖母が父の姿を見て語りかけた途端、父の身体が今までになく動い た。
父は、祖母を待っていたのだ。
そう母と感じた。
そして、各々が言葉を交わした。わたしも、言葉を交わし、
これが、本当の最期となった。
その日の晩に、脈拍等が急に下がり、医師に「今晩が峠だ」と言わ れた。
病院に泊まった。寒さに震えながら、屋上でずっと過ごした。 居なかった神を恨み、医者を恨み、 どうして死ぬのが自分ではなかったのかと恨むわたしに、 3月の夜風は追い打ちをかけるかのように突き刺さった。
それから、朝。そう、3月31日の───