ありがとう、動物戦隊ジュウオウジャー

 

こんにちは、みかんです。

 

昨日日記が書けなかった理由は、タイトルにもあるジュウオウジャーが最終回を迎えてしまったことにあります。
久々に作品ロスを感じています、こんなロスは、いつぶりかなあと思うくらい。

 

時は2016年10月、
仮面ライダーエグゼイド」初回放送時までさかのぼります。

 

おお、今回の仮面ライダーってゲームが題材なんだ。ちょっと見てみようかなあ、
そんな軽いキモチで約7年ぶりに特撮番組を観ることになりまして。

 

もともとニチアサが大好きだったので、必然的に戦隊モノも気になってしまい、
レッド(ジュウオウイーグル/風切大和/中尾暢樹)のビジュアルに一目惚れして、
遅くも追うことになったのがキッカケでした。

 

とは言っても特撮番組を観ること自体「仮面ライダーW」と「天装戦隊ゴセイジャー」ぶり。

当時はのめり込みすぎて脳内の90%がダブル現象だったけれど、
もうわたしもいい大人で、学生でもありません。ハマれるのかなあ。

 

結論、それどころじゃありませんでした。

いえ、むしろ、とんでもないことになっちゃいました。

 

今後の日記でくわしく書きたいから今は省くけれど、
この前の日記で脳内グラフをイラスト化したように、今や脳内の8割が特撮のことばかりです。

 

今こうして会社で文章を打ちつつ(投稿時はさすがに帰宅してます)思い出すだけで涙が出そうだけれど、

これからも心の中にいる大和先生にたくさん元気づけてもらおうとおもっています。

 

放送は終わっちゃったけれどまだお医者さんが待ち構えているので、強く生きます。
次に始まるキュウレンジャーもスッゴク楽しみですし!

 

一足先に感謝祭とVS映画でOPと動くキャストやガワたちを見てきたので、
本当に放映が楽しみであります。

それに、キュウレンオーやセイザブラスター、かっこいいですよね。
わたしはきっとワシピンクとオオカミブルーとオウシブラック推しになります。

 

よっしゃラッキー!それでは、またあした。

 

一日坊主に

 

なりかけるところでした!

 

それもちょっと今日はいろいろありすぎたので、

今日のぶんは明日に引き継ぎます。

 

ごめんなさい!

おどされ・リスタート

 

最近ブログをはじめたともだちに脅されて

ひさびさにブログというものをやってみようかなあと、

化石と化していたブログをひっぱりだしてみたよ。

 

ひとつ前の記事はとっても重いものだけど、

わたしがずうっと書き残そうと思っていたものだから

消さずにとっておこうと思います。

わたしの大好きなお父さんが亡くなったときのことをつづったものなので、

もしも見てもらえるなら、

すこしだけ見てもらえるとうれしいです。

 

はてさて。

今すぐ書け!と言われてもネタがないです。

というわけで最近のわたしの脳内を紹介します。

 

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こんなかんじです。

詳しくはまた近いうちに、つらつらと。

あっ、そうだ。自画像も紹介しておきます。

 

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みかん鳥です。

白文鳥もどきで尾っぽがみかんの葉だよ。

 

あまり長くなっても疲れちゃうからこのへんで。

三日坊主にならないようにがんばります!

お父さんのはなし

だいすきなお父さんは大学教授、家ではただのミリタリーマニアなわたしの「パパ」。 
享年、52歳。 トーキョーと名がつく一番の大学を出て、大学講師になって、死ぬ間際には学部長まで上り詰めた偉大すぎるお父さんでした。 ほんとうにわたしのお父さんなの?なんて。よく、聞かれます。
母と並び、世界で一番大好きなひとであり、わたしの誇りでありました。
ゲームに音楽、漫画に小説、映画におもちゃ…わたしが今大好きで大切にしているすべては、お父さんから受け継いだもの。そう言っても過言ではないんだろうなあ。 
 
 
--------☆
 
 
「頭が痛い」って、お父さんが突然嘆いたのはいつだったっけ。 
普段元気な姿を見せながらゲームをやっていて、犬の散歩を早朝からして、真面目だけれど明るくて、 
そんなお父さんが、帰宅と同時にふらつきながら、倒れるように寝床についた様子を見せたのは、いつだったっけな。 
 
とある休日に病院に行ってくると一言残して、何時間も何時間もお父さんは帰ってこなかった。 
お母さんと二人、どうしてか「ゾッ」とする感覚に陥りながら、タウンワークに乗っている病院に片っ端から問い合わせたのにお父さんの姿はどこにもなくて、どうしよう、警察に連絡したほうが…大学に連絡したほうが…混乱していた矢先、ふらり、お父さんは帰ってきた。 
「明日、入院することになった」という言葉を連れて、お父さんが、帰ってきたのでした。 
 
突然の事柄に、お母さんと二人で驚いた。 
わたしは何が起こったか全くわからなくて、その日はお父さんの顔を一瞬すら、見ることは出来ずに居たのでした。
 
次の日、お父さんは家を出て緊急入院。 
もう、「生きて」家に帰ってくることは、なかった。 
 
症状は、髄膜腫。 
ずいまくしゅ。一文字一文字を頭の中に描いてみても、わからない。この病気は死につながるの?そう思うと、怖くて。調べることすら、話を聞くことすら、何一つ出来なかった。
 
何日か、見舞いにすら行けなくて。
受験も迫っていてただでさえ頭が混乱していた自分には心の負担が多すぎて、1日に何回も吐いた。 
当時、わたしの事をずっと好きだと言ってくれていた同性の子にだけ沢山電話をして、普段弱音を吐かれる側だったわたしが、はじめて弱音を吐いた。泣きじゃくりながら、死なないで、死なないで、死ぬならわたしが死ぬから。ひたすら、叫んでいたのを覚えてる。 
 
意を決して見舞いに行った日、少し痩せたお父さんの姿を見たら、視界は涙の海に早変わり。 
変わらぬ笑顔をつくろうとしていたお父さんに涙は見せたくなくて、かみさま、どうか今だけは涙というものを枯らしてください。そうやって、耐えきった。
 
お父さんと話をした。毎日聞いていたはずの声が懐かしい、掠れて弱々しくなった声はあまりにも痛痛しかったけれど、耳に届くその声色は、変わらず、やさしい。病床で読める漫画を持ってきてくれ、毎日やってる仕事を頼んだ、自分は大丈夫だ。 勉強はしてるか?受験が近いから自分の心配をしなさい、母の手伝いをしなさいね。 
見舞いに行くたび、そうやって話をした。 
つらかった、だから、毎日は見舞いには行かなかった。 
行っておけばよかった、泣いてでも、辛くても、毎日喋っておけばよかった。 
お父さんが亡くなってから、後悔を、した。聞きたいことは、山ほどあったのに。 …今でも毎日、後悔している。
 
2月の半ばの入院、そして、わたしの受験。
入院費用、手術代。我が家は裕福ではないから、かかる負担を恐れて、わたしはセンター試験を捨て、本試験を1つだけの大学に絞った。 
今まで受けたかった大学の受験を全て辞めて、120パーセント受かる大学を探した。 
名前も知らない大学だった、だけど、ここならなんとかやっていけそう。
もちろん結果は合格で、お父さんは、上位の大学でもないのに、合格通知にとても喜んでくれた。ひとつだけ、亡くなる前に、安心させられた。 それが嬉しくて、その日は近所の公園で3時間泣いていた。
 
突然、お父さんがiPadを欲したのである。 
携帯もずっと持たず、興味ももたないお父さんが、iPadなら持ちたい、と言い出した。 
すぐにソフトバンクにひとっ飛び、わたしでも持っていない大きな塊を抱えて病院に返って、すぐにお父さんが好きだったサイトや軍歌のURLを入れて、メールアドレスの設定。これで完璧である。
次の日に、メールが届いた。 
お父さんが転院するまで、4件のメールが届いた。わたしを褒めてくれたり、謝られたり、届くたびに、吐くまで泣いた。 
 
病院食が嫌だと嘆いたお父さんは、お母さんにいつも惣菜などをこっそり買ってきてもらって食べていた。 ハマケイのメンチカツと焼き鳥が大好きなお父さんは、少し食べただけでとても嬉しそうだった。
 
 
入院から何日が経ったんだろうか、お父さんが検査手術を行った。
その頃には、お父さんは見るに堪えないほど、とても痩せ細っていた。 
 
 
レベル4(末期)の大腸がん、である。 
 
 
母から聞いた途端、頭に悍ましいほどの重りが落ちてくるのを感じて、
今まで抱いていた希望が崩れ落ちるのを感じて、
インターネットで死にもの狂いで希望を探した。 
 
成功例を見て、自分を慰めた。しかし、次のページでは、現実を突きつけられる。どれを見てもそうだった。
 
 
希望は、ほとんどなかった。
 
 
結果が告げられた後急な転院が決まり、いよいよ手術が近付いてくると、今まで一言もネガティヴな事を言わなかったお父さんが突然不安な気持ちを漏らした。
 

「こわい」と。

 
朝方に送られてきた最期のメールには、お父さんからの言葉がつらつらと綴られていて。 
我が家の犬と鳥も自分を待っているだろう、犬と散歩できるのを楽しみにしている、そして、本文の終わりには 
 
『退院できて体力が回復したら、三人で家族旅行をしましょう。』 
 
と。 
 
言葉を見た瞬間、携帯を、落とした。 ストラップが割れる音がした。
現実で、「死亡フラグ」を、見たのだ。 
暫く意識を失ったらしい、気付いた時には布団の上であり、吐瀉物に塗れていた。

 

 
 
 
医療タクシーを使って、お父さんが遠くの病院に転院した。 
大きな病院であり、関わりのかの字が辛うじて見えるくらいの従兄弟がすぐ近場に住んでいたのが僅かな希望だった。
 
痩せ細り、点滴を受けているお父さんを見た。 
病院が遠かったため、お父さんには頻繁に会いに行けなかった。 
手術もすぐの事であり、会ったのは手術前であった。 
お父さんの書き記していた、簡易な日記をお母さんと見つけた。 
ちらりと見た。お父さんが、神に祈っている文章を、見た。あのお父さんが、 
手術前に、少しだけ話をした。 
お父さんも大丈夫だと言っていた。わたしもお母さんも、大丈夫だと精一杯笑った。 
 
手術に行くお父さんに、「頑張って」と、声をかけた。 
これが、最期の言葉になった。 
 
父の手術は成功したが、人工肛門を嫌がっていた父は、 
リハビリを受けて、すぐ、数日も経たないうちに炎症を起こし、大量出血を起こし、 
全身麻酔を行った手術後、その間に脳梗塞を起こしたようであり、麻酔から覚めず、その意識はもう二度と戻らなかった。 
 
その知らせを聞き、駆けて行った。 
目にしたのは、動かない父の姿。たくさんの点滴に繋がれた父の姿。 
目にした途端、倒れ込みそうになった。膝が震え、化粧室に行く途中に、倒れた。 
吐いて、泣いて、気が狂った。 看護師さんに取り押さえられて、ベッドに拘束されても、喉からひゅう、としか出なくなるまで泣き喚いた。
そして、悟ったのである。 
もう、目覚めはしないんだろうと。 
 
母は毎日見舞いに行った。 
 
医師のまだチャンスはあるということばに、嘘つき、無理なら無理だと言え、この藪医者め、金をかけさせてふんだくることしか考えてない藪医者め、心の中で何度も何度も罵倒した。
 
しばらく経ち、母から言葉が出た。今後の事について、だ。 
 
人工呼吸器は医師側は何が何でも外すことはできないのだ 
決断を迫られていた。 
母から、言葉が出たことを覚えている 
「このまま薬の投与を続けて、植物人間でもいいから、生きてもらう?」 
 
 
わたしは首を横に振った。 
いやだ、と、即答だった。 
父に苦しんでまで生かされてほしくなかったし、プライドの高い父だったから、こんな無様な姿をずっと曝け出すのは 
きっといやだろう、そう考えたからだった。 
母も、全く同じことを考えていた。 
流石に涙を隠しきれず、母に隠すように化粧室に逃げ込んで、切れるほど唇を噛みしめて泣いた。 唇が真っ赤だった、噛み切ってしまったらしい、痛みなんて、1ミリも感じなかったのに、いつのまに。
 
 
父の事は、従兄弟と一部の大学関係者以外、誰にも話していなかった。 
祖父母にもだ。 
祖父母は高齢であり、ショックも大きいとそれこそ倒れてしまう。そして、心の底のすこしの希望に賭けていたから。話さなかったのだ。 
しかし、もうそろそろ亡くなると祖父母に話さなくてはならない。 
話せば、直ぐに祖母が岡山から駆け付けた。 
祖母が父の姿を見て語りかけた途端、父の身体が今までになく動いた。 
 
父は、祖母を待っていたのだ。 
そう母と感じた。 
そして、各々が言葉を交わした。わたしも、言葉を交わし、 
これが、本当の最期となった。 
 
 
その日の晩に、脈拍等が急に下がり、医師に「今晩が峠だ」と言われた。 
病院に、泊まった。寒さに震えながら、屋上でずっと過ごした。 居なかった神を恨み、医者を恨み、どうして死ぬのが自分ではなかったのかと恨むわたしに、3月の夜風は追い打ちをかけるかのように、突き刺さった。
それから、朝。そう、3月31日の───